昭和54年10月08日 朝の御理解
御神訓 一
「神は声もなし、形も見えず、疑わば限りなし。恐るべし。疑いをされよ。」
信心は神様の姿もなからなければ形もない、神様を信じさせて頂くというのですから、それが信じれれるようになるまでが信心なんです。信ずる心とね。本当に漠然といえばこんなに漠然とした事はないでしょう。まぁいうならば雲をつかむような感じです。けれどもそれを信じて疑わず、神ありと自分の心に頂き止めて、信心辛抱させて頂いておる方達の上に現れてくる、いうならば神様の働きおかげ、もうこれは限りのない働きになって、人間幸福のもう最高の幸福が頂かれると。
しかもこの世だけではない、この世あの世を通して幸福の道が開かれる、というのですから、とにかく神様を信ずるという事ね、また信じさせて頂ける手立それをお道の信心では、私は話しを聞いて助かる道と言われる、その話しの事だといわゆる御教えの事だと、だからどうしてもねそのみ教えをね、まいうならば行じてみる頂いてみると、言う事にならないと神様はいつまでたっても本当に分からんです。いわゆるもう限りない信ずるという心が生まれてこないです。
神は信ずる者を信ずると教えられるのですからね、だから神様を信じたらどう言う事になるかというと、第一ね不安がなくなり心配がなくなり、焦燥腹立と言った様なものがなくなる。これはもう本当にそうなんです。だからまだ焦燥やら腹立ちやら、またはあすこに不安定なものがあるとするなら、まだまだ私共が拝ませて頂いておる神様を、まだ本当に信じる事が出来ていないんだと悟るべきです。そして絶対なものとする神様を心に頂き、信じられれるおかげを頂く事の精進をしなければいけないですね。
またこの精進は限りがない事ですけれどもね、そこからね信心の確立ということが言われますけれども、いろんな事が詳しくなると言う事じゃないです信心の確立というのは。いわゆる信ずる心の確立なんです。信ずる心が確立してくる。例えて申しますとならならどの様な事が起こってきても、驚いてはならぬと仰る様な驚かんですむような信心。どう言う事が起こって参りましても、それをおかげとして頂けれる神様が。いうならばお話を頂けば頂くほど、一切が神愛であると言う事が段々わっかって来ます。
その一切が親愛であるとね。その和からして頂くと言う事が信心の確立なんです。それにはね本気で教えに取りくまなきゃ教えを行わなければ。今度の御本部参拝で、まぁ本当にちょうど参りました日も、あちらへ12時頃着きましましてから、まぁあちらの御信者方が五十数名集まっておりましたから、あちらでお取次ぎをさせてもらい、またあのうお話をさせて頂いたんですけども、その1時間の間にお取次させて頂く、そのうお取次もちろん新しい方達もありましたから。
お伺いやらお願いやらもございましましたけれども、殆どはおかげを居ただいとる事を、いわば合楽理念によるおかげを頂いとると言う事なんです。いわゆる合楽理念が絶対なものであると、ならなるほど助かりの理念であるという事が確信が出来てくる。もうでなかったらあれだけのいうならば、あのう何と申しましょうかね奉仕というか。次の日私共は5時半にあそこを発たなければなりませんのですから、ホテル旅館の方では朝の食事も出来ない訳です。7時にならなければ出来ないと言う事。
それであちらの御信者方が寄り寄り集まって、もう5時半に発つ5時前だったでしょうか、もうそれぞれに熱い味噌のおつゆから、もう御飯からもう皆で運んで来て下さって、まぁ一生懸命御用して下さった。またお祭りにもえらいもんでしたね、やはり十四、五人一緒にやっぱり、自動車五台であのう御本部まで、皆んなお供をさせて頂くと言って見えて、そのままお祭り頂かれたら、まぁ四人ずつ乗っとったって、四・五の二十人はきとった訳でしょうね。
それから私共福山駅に着きましたら、その前日みえた殆どの方がまた、駅まで見送りに出ておられました。それぞれお土産やらも準備させていただいとらなければ出来ることではないです。それはどういう事をいうならば信ずるかというと、合楽理念は助かりの理念だとして、もう一番私が感心します事は、日参教聴ね信行家業の行を本気で取り組んでおられることです。だから福山から月に1回しかお参りされませんから、まぁ2回参る方もありますから大体そうでしょう。
ですからなら日参が出来ないから日参した積りで、そのお初穂を奉らせて頂いて毎日おかげの泉を拝読するという、それでいわば日参教聴がまぁ的な事ですけども、神様はそれを日参として教えを頂いておるとして、受けておられるんじゃないでしょうか。皆さん毎日参っておられて毎日、日参しておられて教聴しておられて、だから教聴しておるということは教えを聞くという事だけではなくてね、教えを守ると言う事なんですね。そういうところからいうならば確かに合楽理念は助かりの理念と言われる。
こういうおかげを頂いた、こういうおかげにもなりましたという、お届けがほとんどでした。でそこから初めていわゆる神様を信ずるという力が、生まれてくるんですね。その信ずるたけというか、信ずるだけがあなたの信心の財産ですね。何十年参っておっても、理屈は分かっておっても、拝む道は上手になっておっても、やはり神様を信ずる力というものが出来て来なければいけません。神様を信ずるとどう言う事になるかというと、第一、不安がなくなる焦燥が無くなる、腹立ちなんか尚更無くなる。
ちょうどあちらへ参りましたら、渕上君が来とりました。今教学研究所に勤めています。そしてまぁいろいろ御用してくれましたが、彼のいろいろの話を聞かせて頂いて、本当にありがたいこっじゃないかと。ついこの頃まではもう合楽はもうとにかく、金光教じゃない、あれは合楽教だと、言う風に言われておったのが、もうとにかく合楽の信心に皆んなが傾倒しだした。教学畑の上にもその合楽の信心が、だんだんこう取り上げられるようになって来たと。
これはまだ本当に話として、申し上げられないところも沢山ありましたけれども、それを神様に私がお届けさして頂よりましたら、大きな座布団を2枚敷いて、私にどうぞとこう言われるところを頂いたんです。今までは例えば私が座布団しいとらんでも、合楽の先生に座布団あげんかと言う様なもんな、誰ぁれんいなかったでしょうね。ところがこの頃では大きな座布団を2枚敷いて、先生どうぞとこう丁重に扱われるだけの、風に変わってきておると言う事です。
そして私は昨日古川に参りましたら、もう食事の準備が全部出来ておりましたが、そこで大きな座布団が2枚敷いてあるのでびっくりしました。ついこの頃まではとにかく、まぁ合楽と縁を結ばれたと言う事が教団金光教の上にでも、何か肩身の狭い思いをされる事ばっかりの感じでしたよ。ところがいわば古川家の方にも分かるし、いわゆる威智雄さんが妹が今、5代様の奥様ですから、もうそちらからなんかでも合楽に対する、そのいわば態度というかも大変慎重になられたと言う事です。
そこで私は今日の御理解をですね、成程神様は声もない姿もないけれども、私はもうその大変な事がやっぱいろいろあったんですけれども、私はひとっつもそれを心に掛ませんでした。古川の方に行くでも、もうそれこそ淡々として、まぁ今に分かるぞと言った様な、何かそういうものもございませんでした。ただ神様を信じておる神様を疑わない。それでまぁ答えを出すなら何時かは分かって来ると言う風に思わしなかった。そう言うものが内容にはあったんではないでしょうか。
そしたら私が渕上君との対話のときに頂いた様な、ようにそれこそあのう合楽の先生を特別扱いをされるような、働きが生まれてきておるという事です。それまでに悲しい思いをした、腹立たしい思いをしたと言う事はなかった。けれども結局神様を信じておるから、疑わないからそれが出来たんだとこう思うんですね。ですからね結局形も姿もない神様を対象とした、生き方を信心生活というのですからね。
いよいよなら神様をはぁ神様とは間違い無いなぁ、という日々の信心修行の中にそれを感じていく、生活にならなければいけません。ためにはもいよいよ合楽理念の徹底によるほかない、と言う風に思います。合楽理念の徹底と言う事を大きく言えば、教祖様のみ教えをも噛み砕く様にして説かれてありますから、ならどんな頭の悪い人でも年寄りでも、いうならば若い人でもそれを行じようと思えば、誰でも行じられるように説いてあるのが、合楽理念ですからね。
それを本気で行じさせて頂くと言う事なんです。そこに間違いのない神様を頂く事ができる。疑えば限りがないけれどもまた信じれば、もう限り無く信じられます。そういう信ずれば信ずる程ね、その事の問題は動かなくてもその周囲に、神様の働きの間違い無さを感ずる事が出来るからです。そこにいうならば喜びの生活安心の生活、だから神様をいよいよ信じて疑わないという行き方。そこからは神様がまた限り無いあの氏子はという、神様の御信用もついて来る様なものです。
神様と私どもが信じ信じられる、言うなら生活を本当の信心生活だと思います。初めからね何もないものを、あると信じなさいと言うのじゃありません。はっきり教えを下さるのですから、その教えを頂いてみて初めて神様ありと言う事が、分かって来るんですね。もう皆さんがねあのうあちらの、この無条件の大祓い信行なんかというのは、実に徹底しているのにまた驚きます。
そして月次祭四回の月次祭、大祭、霊祭の事のビデオをあちらで見られる、あれに合わなければ出来ませんからね。ここにあります様なテレビにとそれを求めてやって、それをいわゆる拝ませて貰い、又はお話を頂いておると言う事ですけれども。例えば月次祭たんびの教えをね、そのうあまりにもその教えがあのう徹底しとるち言うか、次から次と新しい信心が説かれるので、まぁその辺の所に戸惑いを感ずると言っております。
だからそれが直に頂いてしまわれなきゃならんと言う事じゃないのですから、頂いて感じると言う所を行の上に現わしていく、そこにまぁかすかながらではありますけれども。その合楽だからお話をしておるとですね、合楽言葉が出てくるんですよ。合楽言葉じゃなからんとね調子が出てこない訳なんです。お話をしよってもそうですかもんのち言うごたる。私は聞きながらおかしいと思うけども、これだけ熱心なんだなと思いましたね。と言う風にね、そのまぁ福山の方達が月に1回しかお参りしてこんけれども。
日参りした積りで、御理解頂いておる積りで日々の信心に取り組んでおる。勿論その殆どがあちらで信心の稽古を長年した人達ばかりですから、分かりが早いというか。今までその教えというものにあまり触れてなかったんです。だから何かを求めに求めておったものが、ぱっと与えられるもんですから、それが頂いてみたところが有り難いし、いうなら食べ物で言うなら美味しいもんですから、もう本当に限り無い。
いうならばあの信心が出来ていっておられるという感じがしますね。疑えば限りがありません。信ずればまた限りがありません。というてなら信ずると言う事は、なら教えを頂かなければ本当に神様の間違い無さというものを感ずる事は出来ませんね。信心の確立と言う事は、いうなら神様をいよいよ信じて疑わないという心が、段々育って行くことが、信心の確立だと言う事を、今日は聞いて頂いたですね。
どうぞ。